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松の庭が苔を伴いすっかり落ち着いた頃、家の造作をした。家をすっかり壊して新築を目論んだのである。そのとき、庭も壊して作り替えることとした。庭には松と苔の代わりに、小粒の砂石を撒いた。芝生を植えていないので洋風とは言えない庭となった。庭が少し広くなったように思えるが、少々無愛想な庭に変わった。それでも、良いことはある。未だ小さかった孫が来た時には、この砂石をブリキの塵取りでブルドーザーで押すようにして、砂を運び遊んだ。また、夏にはバーベキューセットを持ちこんで、庭でジュージューと肉を焼いて遊んだ。庭が見る場所から遊ぶ場所に変わったのである。当時は広くなった庭は洗濯物干しに便利だ、というくらいにしか考えていなかったが、大いに良いことをしたように思ったものである。母のための小さな花壇をベランダのすぐ先に造り、四季折々の花も植えて楽しんだが、老いた母は余り花壇に興味を示さなくなり私の仕事となった。数年たち、花鉢の数も増え、砂の庭にも草が芽を出し草を抜いたりしている間に、砂粒も少しづつ白さを失い汚れが目立つようになった。いつか、砂を洗って美しい白い砂粒のまっさらの庭に戻したいと考えている。 日本式の庭が未だあるころ、植木屋の手入れを手伝うことで庭の手入れを学んだ。特に、時間がかかる辛気臭い松の手入れを覚えた。新芽が伸びた松の芽摘みは、6月終わり7月初めだった。庭松の年齢が40年から50年とみて、丁度中年の歳に当たり平均的な庭木の年齢となる。12月初めの古葉摘みが続き、早からず遅からずの手入れが望ましいということだった。黒松も植物の特性で陽射しの当たる枝は針葉を太く大きく伸ばしていた。当然のことながら、下枝となる日陰の枝はそれ相応の生長ぶりだった。植木屋もそれぞれの処方をもち、ハサミを多用する人もハサミをほとんど使用しない職人もいた。だが、職人の手になる松は終わってみれば見事な緑色の松に変わっていた。手を入れれば庭はすっかり美しく生気を取り戻す、ということを学んだ。植木屋も人が変わった。得意先の庭へ仕事で出かけ、庭石を踏み枝ぶりの手入れに勤しんでいるとき不運が起こり転んで頭を打ち立ち上がれなくなった、という。それから数日して亡くなったと聞いた。次の職人は近くの庭を手伝う人の紹介だった。いかにも庭師という色浅黒い人だった。数人の年寄りをいつも連れて来たが、日当が高くなりお断りすることとなった。次は知人の紹介で工場勤めの現役のサラリーマンだった。3代目となるこの人は仕事仲間の友人と二人でいつも手入れに来た。脚立に上り、大きな声で工場のこと、勤めのこと、趣味の山のこと、そして写真が得意だということを大声で話していた。ふたりはウマが合い楽しそうな話が1日続いた。 職人たちが手入れをする松は、いつも見えないほどの速さで生長していたように思う。門かけ松は支えの木を大きいものに変えたし、中央の柱となる松は、脚立の背でやっと届くほどの大きさまでなったのだから。そんなことで庭木は松の手入れ季節に合わせて、シーズンごとに生まれ変わった。夏の初めのある時、モミジの葉を全てしごいて落とし裸とした。そのモミジは秋から冬にかけて真赤かな葉を茂らせていた。百日紅は冬の始まりに裸となりつるつるの幹を見せて冬季を迎えた。夏の緑が過ぎると冬は緑を減らして寂しくはなったが、山茶花の次には椿が咲き、初春を告げる赤い木瓜が咲き、梅が咲き、寒い日の庭はそれでも暖かく感じることができた。朝日が斜めに傾く冬は、縁側から御座敷まで陽が射しこみ部屋を温めた。我が家に長男が生まれ、夏にかけて這うことを覚え、秋にはどうにか伝え歩きを始め、やがて陽射しが深く家の中へいりこむ頃には、大きな斑の縫いぐるみと遊びながら暖かい陽射しがぬくぬくと温める、そんな冬の団欒を過ごした。その犬の大きな縫いぐるみはいつか赤ん坊のよだれで汚れ、子どもの仕業で毛が抜けて、どこかへ片づけられいなくなった。 裏は広い畑があり、松が1本だけ現在に残った。というのはジャガイモの畑として手を入れていた隅に、松の苗木をずらりと並べて植えていた。いずれ松の枝ぶりでも趣味と観賞用にと投資で植えた松の幼木である。そういう配慮が松を植えたし、いつまでも変わらない松の並ぶ畑が季節を少しづつ繰り返しては年輪を積んでいった。我が家の庭と裏の畑は、日を経てある日の決断まで続くこととなる。ジャガイモ用の畑であった裏の空き地は、借家を造ることで若木に生長した松を1本残して全て処分し、また、松の手入れを覚えた庭は姿を変えて、砂粒のある今までよりは広い庭となった。改造計画を断行した我が家の変化は、子どもの成長を見ながら小さな歴史を紡ぎ換えたと思うし、明日へ向かって少しずつ変わる我が家の息遣いでもあった。たとえようもなくつましやかに、我が家は形を変えた。畑までは手が回らないと理由を付けて、裏の畑に3Dkの平屋を建て畑を借家へ、松のある庭を砂粒のある松のない庭へ造り替えたのである。その後30数年、借家人は新婚さん夫婦、幼子を持つ若夫婦、教師の独身男性と住み代わり、それぞれの人生の節目を生きて、借家は人を住まわせてその任を果たす。子どもが独立結婚、勤務地に近くマンションを買い別居、それを汐に、家の造り替えを行い新しい家に住み、やがて10余年経つ。 2・砂粒を敷いた白い庭は10数年経て、目に馴染みぼんやりと薄汚れて見えるようになった。庭木の数は減ったものの庭の外周に並べて植えた庭木は、小鳥や昆虫類を呼び集めた。特に2月の末ごろになり寒の緩んだ日は、葉を茂らせ大きく膨らんだ金木犀の藪中にメジロが飛んできた。そして鶯やいろいろの小鳥の遊び場所となった。棒樫は隣の家との境にまとめて植えたりした関係で、ここにも小さな藪が出来た。ある日、驚いたことにこの樫の木にキジバトが巣を作ったのを見た。庭木の手入れを省くのが目的で造作した庭には、私が手を伸ばせて届く位置が限界と検討を付けて植え木の高さや配置を定めている。どうしたことか、手を伸ばして届くぎりぎりの位置に巣をかけたキジバトは、その樫の木の股に上手に藁くずなどを敷いて丸い20cmほどの巣をかけていた。樹林に見えたのかもしれないとは思ったが建屋に近く、洋間となるその部屋の窓からは手の届く場所となるわけで、これはキジバトの誤算だ、仕方ないだろう、そう思って翌日にはその巣を取り壊すため頭上高く手を伸ばした。巣は木の股にしっかり取りつけられていた。 巣を注意しながら持ち上げ目の高さで見ると、卵が2つコロンとした形で納まっていた。2つの卵はウズラの卵によく似た大きさで斑点をもっていた。手に取った巣は藁屑で編んだように上手に作られていたものの、人の手で1度取り外された巣は編まれた形をより歪にした。だが私の努力もここまでである。巣を元に戻して知らぬ顔のハンベーを決めることとした。私のそれからは例の巣に近い窓から鳥の巣を眺めて観察することとなる。元に戻したはずの巣は枝の上面で収まり幾分浮いた形に変っていた。キジバト夫婦の不信の姿が思い出される。今でも番いのこの2匹のハトが小首を傾げグルグルと鳴くさまが思い出される。私には責任はないよと、その思い出のハト夫婦に詫びたい気持ちだっつた。巣を元に戻したとはいえ不完全な行為で迷惑をかけ、平穏を過ごすはずのハトの夫婦の生活を脅かしたんだと。ハトの夫婦は交互に巣を温めるため頻繁にきた、そして時々近くの枝に留まりグルグルと鳴き、巣のハトがグルグルと鳴くのを見た。 春となり、既に卵は孵化し1羽はその小さな毛のない頭をちょこちょこと動かしていた。そして、不運のままに命を閉じたもう一つの卵は、孵化し無いまま地面に落ちて割れているのに気付いた。そんな悲しい事件を思い考えていくと、丸い椀状の巣から卵がひとりで落ちるわけはなく、命を継ぐ行為として、夫婦ハトの行為だということに思い至った。生きるとは命の尊厳を守りながら、生き延びるための環境を整えていくことなのだ、とキジバトは教えているように思った。 夫婦のハトは入れ替わり立ち替わり餌を運んできた。その頃の樫の木は、青黒い頑丈に見える葉の間に鮮やかな緑を思わせる葉を育てていた。新緑を教える美しい緑の葉は少しずつ葉を茂らせていった。庭は冬から春の準備を始め、木々は春雨を浴びては少しずつ林の形を整えていく季節である。葉が茂る季節に合わせて、命の尊厳を生きた雛は、繰り返し運ぶ餌を雛は肉とし血と換えて、やがて身体も大きくなり親鳥に近い大きさにまでなった。これまでのハト夫婦は雛を育てるのに勤勉だった、休まずに餌を与え続けた。やがて雛鳥は、大きな体を巣の縁に足をかけて羽ばたく練習を始めた。ぱさぱさと音立てて羽根をゆすり、繰り返し雛鳥は飛ぶための練習をした。 やがて巣立ちの日が近くなる、そんな予感を覚える頃、巣を覗いている私の存在に夫婦ハトは気付いた。それから2日後には雛鳥もいなくなりキジバト夫婦も巣へ寄りつかなくなった。ハトはいなくなってしまい、それからの巣はただの藁ゴミでしかなかった。電線が道路と並行に庭を見下ろす高さで張られており、ハトやツグミやムクドリや雀、いろいろの鳥が留まっては、平和な時を過ごし時々鳴いた。少しだけ縞模様の目立つハトが来て鳴いた。ハトはグルグルと鳴き、そしてときどきグールグールと話しかけるように鳴いた。そのハトは電線から私の家の庭を見下ろして、2日ほど鳴いていたがそれからいなくなった。思うんだが、キジバトの雛は巣立ちして後、自分の育った小さな巣をかけた木を、樹林を、小さな林を見に来たんだと思った。今でははっきりと思い出せる、我が家の庭で巣立ったキジバトの雛は、あのときグールグールと鳴いて別れを伝えに来たのだと。 庭と庭木の手入れは私の日課だ。庭に散る枯葉を掃き草をとり猫のフンを片づけると、庭に関してほぼ日常の務めは終わる。ささやかだが狭い庭だから短時間でそれも終り、あとは花壇の花の手入れがある。といっても花に疎い私の管理する花壇は、今は冬だから10日ほど前に種まきした花の種がぽちぽちと芽を出す頃だ。小さいから狭いから、花のない花壇は無ければ無いで済むわけだが、決まって寒暖を繰り返し陽射しを陽気にもたらす温暖の地にあって、花芽がないが草もない花壇はいかにも管理不行き届けであることに変わりはない。そのお粗末な花壇の見える縁側で、最近の母は日向ぼっこをすることが多くなった。テレビの音量を上げたのも気になるが、レースのカーテンをすかして縁側の椅子に掛け、そのままの姿勢で憩う母の姿がいつか動かないまま、永遠動かなくなると思うことがある。コトリと音立てて命が尽きるときの厳かで静かな時間を、庭にいて不用意に考えていることがある。 3・石を配した庭とはいえ、砂粒を敷き詰めた庭とはいえ、ささやかな庭である。小学校4年生となる孫は、ささやか過ぎて狭くて、もうこの庭で遊ぶことはなくなった。石の尖りに載って紙飛行機を遠くへ飛ばす努力をすることもなくなった。かってブリキの塵取りをブルドーザーに見立てて砂粒を掬い上げて遊ぶこともない、と思っている。子どもらしく遊びは近隣の広場から街へ、公園を見下ろす高台へと変わり、近くの公園は遊び場でもなくなった、ように思える。背丈が伸びて大きな靴をはき、もうすぐ母親の丈を超すともなれば、狭い造られた庭の広さでかなう遊びも無いだろうし、孫の成長を見ながら私自身の老いも感じ始めるこの頃である。とはいえ、まだまだと欲をかくつもりはない、今さら背伸びをして腰を痛めたんじゃーみっともない。体調不良を寄せ付けないのもこれまでの私の人生だったから、侮らず気取らずその延長で明日を考える。 猛暑を繰り返した今年の異常気象のおかげで、いつもに遅れて松の手入れは12月となってしまったが、この冬の雨が終われば直ぐに取りかかり、2日ほどで終わるはずである。裏の空地へ松苗として植えたのがかれこれ50年前となる。空き地を有効利用、借家建設は既に記したことであるが、そこに住んだ3家族を送り出して平穏な時代だったと振り返ることが出来る。松は出来るだけ小さく仕上げる、を心がけて大胆に枝を落とした時期がある。それから数年経ち、油断していたのかまたずいぶんと大きく枝を膨らましてきた。今年の手入れはこの、大きく膨らんだ松をそのままに余り枝を落とさないように、と考えている。未だ、十分に松の枝は手を伸ばして抱き上げ一枝一枝の伸びすぎた新芽を落とすことができる。作業用のジャンパーを上から羽おり、廃棄したセーターでこさえた腕カバーをすると、準備は出来た。さて、という姿勢で松に取り組むわけだが、半年ぶりの松の手入れは仕事に馴染むまで少しだけ時間がかかる。松は百日紅の紅葉して降り落ちた葉をまとい、小さな盛り上がりを見せて枝を重ねている。 足元の水仙の株をよけて百日紅の落ち葉を踏む。数ケ所から枝の古葉に取り組むわけだが、大きい枝から取り組むとして、やおら枝を抱くように下から手で持ち上げるように伸ばす。作業の最初は、この時の松の感触だがなかなか大きい、そして重たいということに気付く。目の前の高さにある大きい枝の針葉を順番に小枝まで辿り、やおら針葉の根元部分に集まる黒ずんだ古葉をむしり取る。陽射しの一番当たる枝先の針葉は健康色に黒ずみ、伸び伸びと生長していることが分かる。むしり取る、指先をずらして次の針葉を選びやはり黒ずんだ古葉を摘む。枝全体を抱いて、小さな小枝の1本1本に取り付いて、古葉となった黒ずんだ針葉を摘み取って行く。寒い日だったが松に取り付いて、身体を左右の足で固定して動きのない姿勢を保つ。指先の運動だけで枝ごとの針葉を1本づつ丹念に摘み取る。残した年内の仕事は、この黒松の古葉摘みのみである。この松は庭木としては不十分ながら、手入れを済ませた頃には、見違えるほど溌剌とした緑の松となる。動かない身体は指先の運動を繰り返すわけで、すると脳は風を避けるように自由に記憶を探っている。 松のある畑は狭くて小さな路地に面していたが、下水道工事の後の路面舗装でにわかに街の小道然と変わって見える。私有地との境界を明確としたことで車2台がやっと並ぶ広さと分かった。この路地は幹線となる東西へ走る道路とつながり、もう一方は100mの長さで住宅地の路地と結ぶ。この路地と並行して数本が幹線と結んでいるため、通りは犬を連れた散歩、そして近所の老人たちの散歩コースとなることがある。もっとも最近では様子が変わってきた。ディケアの車がこの路地を頻繁に通ることとなった。小型ワゴンの車から見る車内は、ほとんどが老婦人たちでで男を見ることは少ないようだ。この地を造成して住宅が建ち既に50年以上となる。50数年前の当時、藪の茂る丘陵地だったが、県営住宅の計画があり、開発が進む話を遠くのこととして聞いていたが、我が家もその当時の開発された隣接する宅地を入手、小さな平家を建て住んだ。町は年輪を重ね周辺に住宅のエリアを広げて、すっかり落ち着いた田舎の町となった。それが数十年となる昔の話であれば、当時からマイホームをこの地に定めた世帯は、老人世帯にすっかり変わっていた。遅れて、その周辺に建つ家の一つである我が家も、地域の家として同じように家も古びて家族も老人世帯へ変わったのはもちろんである。 県営住宅の建屋と敷地は一律の企画で狭く小さな平屋であったが、時を経て隣接の土地を買い増したり、空き地となった家もあり、また改築により2階建ての家となり、今日では住宅の景観は変わった。我が家から見えるこれらの家々と、地域の交流は無い。自治会の日に、自治委員として登録されていなければ、ほとんど会うことも無い、社会である。地域はほとんど、自身の生活にかかわりなければ交流も交際も、顔見知りでない限り声かけあうことさえないだろう。季節の折々の行事に参加するわけではなく、子どもや犬の趣味など共通のものがなければ知人でさえない。まったく知らない関係として、自治の役員は公民館主催の自治区共同の運動会や小さなコミュニティ祭りに臨む。そして近隣はエリアを分けあって、年末の夜回り防犯に臨時の警戒網を引く。所得倍増と文化生活を囃すマイホームが華々しく謳われ、コミュニティさえない町があちこちにできた、そんな時代を現在に引きずっている、という地区の一つである。 4・松の枝に取り組み、繰り返し指先で単調な作業をすれば時間が作業の終了を教える。辛気臭いが、辛抱があれば出来る仕事である。もっとも、自分の松だから辛抱できることだが、とても請負で手伝う気にはならない。年間2回の松の手入れは職人たちの手を煩わしたが、ゴム会社に工員として勤めていた2人の人たちは、この辛抱に耐える方法として毎日の出来事を声高に話題として時間を凌いでいた。工場の誰それの話であり、失敗談や聞き耳をたてて聞いた話であり、そして失敗談であったりした。そんな時は、脚立にのったまま口をあけて笑ったりした。それはふたりだけの秘密を分け合う楽しそうな時間だった。松を趣味として、植物を育てるいろいろのことに精通して、針葉の伸びる枝を抱いて時間を過ごすのは、やはり苦痛に違いない。ふたりは家族を持ち生活を支えているだけに、仕事と遊びと息抜きとなる時間について、あっけらかんと生活臭のする話をした。共通していたことは、どこかで金儲けにつながる話であり、生活を助けるための工夫が込められていたように思う。 12月初旬は春へ逆戻りするような暖かい過しやすい日が続いた。それから中旬となり、初めての寒波が来た。背振山頂を白く雪が覆い、空気は森閑と張り詰めていきなり寒くなるわけで、空が重たく雪雲を載せて西から東へ流れた。どんよりと重たい空を抱えたまま気温は上がることなく1日過ぎた。そしてそれは3日間続いた。そんな寒い日、グループのボランティア活動として小学校へ教育支援に出かける。もうすでに4年となる活動だが、学校教育はゆとり教育の方針を学力向上へと今年変更した。落ちこぼれをなくそう、に共鳴したグループ活動はシニアの私たちにとって手なれたことであるが、月2回が1回と減った教育支援は小学校を少しずつ遠ざけるように思える。子どもたちに元気で大人となるための常識を勉強し、生活に困らないだけの最低の算数計算を学び実社会に出る、私たちの活動はその支援活動である、と少しだけ胸を張って励んでいたことでもあるが、学力が落ちたという直接的な評価に政府は即対応をした、というにすぎない。 最大多数の幸福を考えて運営されるはずの社会である。方針が決まり良かれと思われる方向へ舵は取られ、進められる。方式は民主的な運営なのだが、大多数を標榜するだけの自分主義もある。考える人間は、富を求めて生きて来たのも事実だから、他人の幸せ以上に自分と家族と一族の富を優先させた話は遅れた国に山とある。たくさんある人間社会の遅れた現象なのだが、人間は頭を使い身体を使いほんの一部の悪意に右往左往させられて久しい。人は死ぬまで善意を信じて生きた、とする方がはるかに生きていくのに楽だし、考える葦としての宿命に準じている、と思うんだが。考える葦が、考える平衡感覚を欠いた時、社会は欠いた方向へ自然のままになだれて壊れていく。それは、強い意志を持たないままに善意を多用した「めでたさ」に似ている。これまでに育てて来た人間社会は、愛や善意を信じた数だけつまずき、砂岩ほどにもろい社会となり、現実には不信さえ育てかねない社会でもある。堅牢に見えるが実にあっけないほどのもろさである。隙間風は吹きこむ隙をうかがっている。
by yilai3
| 2010-12-12 08:28
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